1月17日(月曜日)阪神淡路大震災から27年

本日も底辺労働者としての一日が終わった。野田から戻って来て、あっちウロウロこっちウロウロでした。なんか明日も忙しそうだし、それはそれで喜ばしい事だな。

阪神淡路大震災から27年だ。良く覚えているし、もう27年経ったんだ…と思う反面、随分と時が流れたと感じる部分ある。あの時から防災への備えに対する意識が変わった。防災袋を備えるみたいな意識ね。その中に、10円玉を防災袋の中に入れておくというのがあった。これ、公衆電話で使うための物です。1000円分はオーバーとしても数百円分持っていたら重いよね。そしてこれは通じない備えになたった。通信手段で言うなら、複数の回線確保とバッテリーだろうね。

震災後に検証が始まると、自衛隊の動きの悪さみたいな物が指摘された。あくまでも俺の記憶だけど、自衛隊を非難するのはかわいそうな状況だったな。偉い人が涙を流して会見していた。現状ではこれが精一杯なんです。そう言っていたのを思い出す。そのあと週刊誌がこれに関して検証記事のような物を書いていた。関西の地域政治と自衛隊の相性の悪さを指摘していた。これを読んだときに、あ〜なるほど、分かりやすいと思いましたよ。

週刊誌記事で覚えているのをもう一つ。日本一の任侠団体の本部で、水やおにぎりをはじめとした物資を配っていた。組織力を使い、全国の関連団体から集めさせたんだってさ。熊本の地震の時も、ここの系列が水を配っていたらしい。その取材をしている横で、ヤクザの家で水を配っていると、おばさんが電話で拡散させていた話は、なかなか良い話だと思う。こういう時に力を発揮する人達の例ですね。

笑えないコントのような話も思い出した。近隣市町村から消防車が応援に駆けつけた。何と消火栓の差し込み口の規格が違って、応援に来た消防車が役に立たなかったって話だ。これ、コントのネタじゃなくて、本当の話なんだよね。ここから規格統一に向けて動き出したと記憶している。だらだらと俺的記憶の阪神淡路大震災でした。